個人出版のための電書まとめ

・Kindle Unlimited(KU)
アマゾンが提供する定額の読み放題サービス。現状、日本に存在するあらゆる電子書籍配信サービスのなかで最も使いやすく、普及していて主流に近い。読者様からも評価されており、今後の界隈を担っていく存在として大きく期待されている。一方で、個人出版サービスとしてフルに活用するためにはKU専売を受け入れなければならないが商業出版にはその規制が適用されない、読んだことにされる全体のパーセンテージが個人出版と商業出版で異なるなどの不平等性や、アマゾン一社にのみ需要を独占させることの潜在的リスクなど、一定の問題も指摘されている。しかしながら、ワンクリックで購買されるという、ひとつの特許にもなっているシステムの利便性は依然として非常に高く、今後ともこの「KU」を制することが出版界隈を制することになるものと思われる。もちろんアラカルトで出版することもできるが個人出版ではそれほどの部数増にはならない。KUの読み放題に登録すると三ヶ月に一回、五日間の無料キャンペーンを行うことができる。このキャンペーンが読者様から非常に評判がよく、部数増に繋がるので有効活用するべきである。KUの印税料率はkenpcという読まれたページ数に対しておおよそ0.5で、例えば1000ページ読まれた場合500円の印税になる。まったく数字の動かないアラカルトよりも今後はKUに登録し無料キャンペーンと両立させることが界隈の主流になり、作家としても大きな成果に繋がるだろう。

・Kindle Direct Publishing(KDP)
2012年ごろから実際に普及し始めた個人出版サービスで、今となっては日本の個人出版における中心的な役割を担っているといっても過言ではない。他にもいくつかの個人出版サービスは存在するが、総じて出版の機能やサポートについてはやはり世界的な大企業であるアマゾンの推しているサービスであるKDPが抜きんでているということができるだろう。一方で、プラットフォームを海外の企業に独占させることは文化を支配されることに繋がる、市場を独占されてから個人作家に不利な条件を突きつけられても対処できない、日本の出版社と条件の折り合いがつかずトラブルが生じている事例もあるなど、一定の問題も指摘されている。しかしながら、すでに個人出版界隈において5年という長きにわたり安定した運営を続けており、ベストとはいえずともベターな出版界隈を実現すべく、運営、個人作家、読者様のそれぞれが協力して作り上げてきた今の状況はすでにれっきとした新しい文化と呼べるものといえる。斜陽が叫ばれて久しい今後の出版界隈において、気鋭のプラットフォームであるアマゾンの存在感はますます大きくなっていくだろう。既存の既得権益を担う出版社と彼らが運営する日本の個人出版サービスには、より一層の技術革新と覚悟が求められる。さもなければ、皮肉にも、普及しないサービスを乱立させ、オープンしては短期間で撤退することの連続によって、文化を乱すことに繋がりかねないともいえるだろう。

・楽天Koboその他の個人出版サービス
アマゾンのレベルの高いサービスや広範な販路に実質的に対抗できる、国内最大手の個人出版サービスとしては、やはりこの楽天Koboが挙げられる。通販サイトとしても楽天は普及しているため、そもそも論としてアカウントを持っている読者様が多いことは、アマゾンとの類似点である。そしてそれがそのまま、個人出版サービスとしての長所にもなっている。アカウントをわざわざ読書のために取得する必要があること自体が、出発点として障壁であり、普及の妨げになっていることは明確であるといえるだろう。楽天Koboはその時点で重要な関門をクリアしている。短期間で撤退する可能性は低いといえる。サービスにはまだまだ不十分な点があり現状で即座にアマゾンには敵わないが、日本国内のサービスであるため今後の緻密なサポートに期待したい。国内のプラットフォームとして楽天koboが成功すれば競争が生まれ界隈が健全化するだろう。EPUB3という17年1月時点で最新の仕様に対応しているが、逆にそれ以前のEPUB2では原稿を登録できない不具合があることはビギナーに不親切といえる。一方で、楽天Koboは無償での頒布に応じている柔軟さがある。このためアマゾンと併用することでプライスマッチという販売戦略を仕掛け、アマゾンで本来はできない無償頒布を実現するることができる。楽天Kobo独自の客層も存在するなどこれから多くの可能性を秘めているプラットフォームである。その将来性に期待する。

・Kindle Previewerその他の変換ツール
個人出版する際、どこから出版するとしても基本的にはEPUB3という原稿ファイルを作成する必要がある。Web上に素のテキストとして掲載するタイプの小説投稿サイトも流行ってきてはいるが、それはあくまでも小説の投稿であり、「個人出版された電子書籍」として読まれるためにはやはり縦書きやリフローレイアウト(端末に応じて柔軟に再配置される)という性質を持ったEPUB3ファイルが望ましい。漫画作品の場合は固定レイアウトも使われる。楽天Koboの場合、前のバージョンのEPUB2には対応しておらず入稿すらできないので注意が必要だ。アマゾンの場合、EPUB3からKindle Previewerで変換してmobiファイルという独自形式にしたものを使う。KDP作品としてアマゾンから配信されるファイル形式はさらに別のもので、結果としてEPUB3、mobi、独自形式と複数回変換していることになる。自前のmobiファイルをkindleなどの電子書籍端末やスマホに入れることはできるが、その場合個人製の野良ファイルとして認識される。変換のためには「AozoraEPUB3」、「かんたん電子書籍作成」といった個人のツールが役に立つ。一方で、個人のツールには機能やサポートの限界もあることは確かだ。近い将来、そうした界隈の需要をジャストシステム社の「一太郎」の最新版が一括して満たしてくれることが望ましい。リフローレイアウトも固定レイアウトも全部一太郎さえあればすぐに変換できることで、界隈はより一層発展するだろう。

・紙の出版物と電子書籍のリンク表示
アマゾンのKDPで電子書籍を個人出版する場合、平行して「密林社様」という委託通販業者様に紙の出版物を納品することで、アマゾンで電子書籍とリンク表示して販売していただくことができる。このリンク表示の手続きはKDPサポート様に依頼する。紙の出版物はポプルス様という印刷業者様に依頼するといいだろう。イベント割引もあるほど文学フリマ参加サークルの御用達となっている印刷所様で、小説作品の印刷について長年の広範なノウハウを持っているため信頼できる。アマゾンでは最近になってPOD(ポストオンデマンド)という、注文が入るたびにオンデマンド印刷して製本して出荷するという最新鋭の紙の出版物の販売サービスを始めつつある。しかしこれは現時点では高価で印刷品質もそれほど高くはない。ポプルス様のコスパと技術に一日の長がある。確かにPODは在庫管理がないため、将来的に可能性を秘めてはいるだろう。また、「BCCKS様」というサービスがあり、こちらは独自の販売サイトを持つ日本の出版プラットフォームで、電子書籍と紙の出版物をワンストップで併売できる。紙の出版物について、ほぼPOD、あるいは事前に一定部数の在庫を抱えるサービスを提供しているが、印刷や製本の品質、コストについて進歩が目覚しい。またBCCKS様を経由してkindleや楽天Koboを始めとする主要な出版プラットフォームに他販路展開できるところは特筆できる。KUの専売とバーターになるのが惜しいところだ。

・とりあえず個人出版するにはどうすればいいのか
まずはVerticalEditorのような動作の軽いテキストエディタで原稿を書き、次に一太郎で推敲と校正を行う。紙の出版物なら「組版」まで行い、PDFで出力する。電書の場合、見出しや改ページなどの簡単なタグを設定したテキストをAozoraEPUB3やかんたん電子書籍作成のような変換ソフトでEPUB3で出力し、Kindle previewerでmobiに変換し、KDPアカウントに新作として登録する。表紙は、一例として、1024x720pxのpngファイルと、長編が2500pxのjpgファイルを用意し、pngファイルを作品の表紙として設定する。jpgはアマゾンの作品ページに登録する。紙の出版物なら表紙はフォトショップ原稿で印刷所様に入稿する。70%のロイヤリティを選択するにはKUに登録し、250円以上に設定する。アメリカの印税の二重徴収を回避する手続きは必要なくなったが、税のアンケートに答えて作家としての属性を登録する必要がある。郵送物が来ないように明細をデジタルで確認する設定にしておこう。1、本文と表紙を作る。2、電子書籍の体裁にする。3、出版プラットフォームに登録する。大まかにいえばこの手順である。楽天KoboであろうとBCCKSであろうと基本的には同じだ。望むなら紙の出版物を作って印刷し、委託通販の手続きをして、アマゾンでリンク表示まですればいい。KUの場合は三ヶ月に一回の無料キャンペーンが使えるので頒布しやすいが、多販路展開の場合は部数増のために告知戦略にかなりの力を入れる必要がある。

・主要な手法はほぼ何通りかに収束しつつある
これまでに何年もかけていわゆる電書まとめを作ってきたが、そこに掲載したいろいろな情報がつまるところすべて有効または必要というわけではなかったように思う。結局、何通りかの手法に収束しつつあるという状況だからだ。例えばベテランの極致にある人なら、ありとあらゆる手法を試し尽くしてさらに枝葉末節に至るまで可能性を追求するということもあるかもしれない。しかし昨今においてはベテランほどKUに特化しているようにすら思える。あるいはそこまでいくともはや必要なのは作家としての存在に伴われる政治力なので、電書会に入りませんかとか、誰と誰が仲がよくて、界隈を牛耳ってるのは誰かとか、某社のお偉いさんがどの個人作家を嫌いかとか、要はそういう話になってくる。実際問題、そのクラスになるとドキュメントを読む必要はそれほどないのであって、ここを読んでいる人にとって必要なのは序盤の知識、つまり概論であろうと思う。だからこそここではあえて、kindle previewerをどのように使うのかという具体的な内容よりも、そのツールがどのような目的や全体における位置づけとして存在するのかを書いていこうと思っている。1、KU特化でそこそこマネタイズする、2、楽天Koboと組み合わせてのプライスマッチを発動させた無償戦略、3、BCCKS様経由で多販路展開しつつワンストップの紙の出版物の通販も行うなどである。3の場合、紙の出版物をアマゾンそのものに置けるわけではないという弱点を今発見した。

・電書と紙はどちらかしか残れないわけじゃない
界隈ではよく誤解されているが、電書と紙は今後も長期にわたり共存した状態として残っていくだろう。それは当然のことで、何ら問題ない。なぜどちらかしか残れないなどというドラマチックな展開しかないと考えるのだろうか。現実世界はそんなにデジタル的で急激な変化を起こさないものだ。しかし、確実に変わっていくだろう。電書と紙という話題がいろいろあるなかで、確実視されている問題として、いわゆる「取次金融」という現象、悪習が存在する。電子書籍はその妨げになるので普及しないのだ。具体的には、電子書籍の売上は前払いではなくかつ遅延するので、出版界隈の資金がショートして崩壊するというものだ。馬鹿げた話ではあるが、これまで数多の作品が世に送り出されてきた出版界隈の人たちの尽力を思うとその過去を完全に無碍にもできない。しかし「離反者」は増えていくだろう。僕も私も、我も我もという風に、今後、出版界隈の慣習に従わない作家は増えていく。出版社の人間すら離反者となるだろう。僕は喜んでそれを増長する。煽動し、先導する。我々個人作家はそんな時代の最先端にある。電書と紙を自由気ままに使いこなしていこう。電書はある意味ですぐに出版できる。紙の出版物も、蓄積されたノウハウへとアクセスすれば簡単に出版できる。両者を結びつけることも容易だ。道は開かれている。そういう意味で個人作家のほうが今や商業作家より恵まれた、有利な立場にあるといっていいかもしれない。

・個人作家と出版社はどちらかしか残れないわけじゃない
デジタルな二項対立だけがすべてはないことはおおよそありとあらゆることに適用されるがこれもそのひとつである。もちろん世界は変わっていく。既存の権威は失われていく。しかしすべてがどちらかに片寄せられるわけではないだろう。日本全土のあらゆる書店様に数多の新刊を平積みにするほどの大規模な出版を個人作家がどうやって実現したらいいのだろうか。既存の権威を完全に無視したような自由気ままで奔放な出版を出版社が実現できるだろうか。それぞれにしかできない強みを生かして住み分ければいいことだ。大事なのは、大規模な出版も、小規模な出版も、どちらもいとも簡単に実現できるということで、だからこその寛容さであり多様性だといえる。エンタメと文学など、ありとあらゆる属性に置き換えても同様だと思う。エブリワンクリエイターという言葉はついに普及しなかったので希薄化という言葉を使いたい。世界が疎になり、誰のどんな憎悪も嫉妬も競争も、お互いに手が届かなくなる時代が来る。そこでは誰もが自由気ままに振舞い、自由自在にあらゆることを成すだろう。桃源郷なんてものが、所詮人が作ったこの世界のどこかにあると信じていることほどイノセントな勘違いはないって? いったい何をいってるんだ。お前が革命家になるんだよ。実際に世界が日々急速に変化していることほど確かな事象はない。明らかに、劇的な変化の時代だ。今までの何もかも通じない今こそが、まさにチャンスだといえるだろう。

・有償と無償はどちらかしか残れないわけじゃない
個人出版界隈ができてから5年近くが経つが、作品の値段設定については常に活発に議論されてきた。それは現在も同じだ。未だに結論は出ていない。紙の出版物を中心とした同人創作文化を由来とする創作文芸界隈と個人出版界隈は、後発の個人出版界隈の発展に伴って融合する流れになっているが、どちらの界隈も基本的には出版を活動の中心としているため、この値段設定という問題は避けては通れないのだ。アマゾンなど新進気鋭のプラットフォームが台頭し、KUのような定額制の読み放題サービスを普及させたことで、界隈の状況は変わりつつある。今がまさに過渡期だといえる。KUは専売にしなければならないとはいえkenpc次第で印税が得られ、三ヶ月に一回の無料キャンペーンも行うことができ、なおかつアラカルトでも販売できている状態で、値段設定という意味からも非常に柔軟性がある。PODは斬新なシステムだが値段設定において高額であり普及の妨げとなっている。ポプルス様で印刷すれば安価で高品位な同人誌をアマゾンで委託通販できるが手数料が発生する。その分を価格に上乗せすることが通例となっている。いろいろな事情があるが、結局のところ本人が納得する値段設定を行えばよく、人によってそれぞれ違っても構わない。有償の販売と無償の頒布はどちらにも一長一短の魅力があり、今後とも両者は共存し住み分けていくことになるといえる。無償のほうが当然部数増に繋がることは確かだ。

・告知はやらないよりはどんどんやったほうがいい
界隈において非常にもったいない風潮だと思うのは告知嫌いである。やたらと告知を嫌う。何が悪いのか理解に苦しむ。告知を連発していると嫌われるらしいが、一方で世間を観ればどれほどの告知で溢れていることだろうか。情報の3割くらいは告知なのではないか。その究極の是非はさておこう。告知はしたほうがいい。なぜならやはりしたほうが部数増に繋がるからである。確かにやり方の問題ということはある。全体の3割を大きく超える状態、情報の9割が告知となるとさすがに見苦しさはあるのかもしれない。しかし創作家のツイッターアカウントが雑談ばかりで、遡っても遡っても作品のリンクツイートが出てこないというのは傍から観て推しづらく、何らかのスタイルは感じるとしても果たしてそれがベターなのか、潔いのか、一定の疑問は感じるだろう。創作家なのだから告知はしたっていいじゃないか。ほどほどにやればいい。人それぞれ違ってもいい。値段設定と同じだ。告知は悪いことだ、かっこ悪い、という思い込みが問題なのだ。創作家なら誰でも部数増したいと思って当然だ。それはまさに読者様に対する真摯な思いの表れだといえる。告知にはリンクツイート、RT、ツイッターのプロモーション広告、ブログやサイトを作って広告を回す、動画を作ってyoutubeに掲載する、パンフレットを作ってポスティングする、イベントでチラシを頒布するといったいろいろな手法がある。告知を毛嫌いせず、部数増のためにうまく活用したいものである。

・推敲と校正をくり返して原稿のクオリティを高めよう
個人出版であろうが、商業出版であろうが、電子書籍であろうが、紙の出版物であろうが。出版する前に徹底的に推敲と校正をくり返し、作品のクオリティを極限まで高めることは必要不可欠である。おおよそどんな文章であろうと、5回、10回と推敲や校正をくり返すことで、内容が研ぎ澄まされ、誤字もなくなり、読みやすくなることは間違いない。その際に、例えば一太郎の校正ツールを使うことで、なかなか観つけにくいような誤字まで発見することができる。さらには表記ゆれを取る機能もあるのでぜひ活用して欲しい。一太郎は紙の出版物を作る際の組版にも使えるので非常に有効なツールだといえる。一太郎で機械的な校正と表記ゆれを取る作業を数回行い、次に、本文を実際に読書しているのと同じ環境にアウトプットする。例えばKindle previewerの設定次第でiPhone用のファイルを作ることもできる。ファイルを端末に移動させることもできる。Kindle端末でもいいし、紙でプリントアウトするのもいいだろう。修正点をメモしながら冒頭から最後まで読み通す。そして修正点を執筆環境で本文に反映して、再度アウトプットする。冒頭から最後まで読み通す。修正点を反映してアウトプットする。このくり返しだ。実際に読書しているのと同じ環境というのがポイントである。読者様の視点に立ち、執筆している状態と環境を変えることで、誤字や推敲すべき点が観つかりやすくなる。作品のクオリティにこだわりを持つことは非常に重要だといえる。

・世界は希薄化しお互いの手が届かない状態になる
いわゆる広義のネット文化というものは、ネットが誕生してから今に至るまで連続した状態で日々発展してきている。黎明期の文化は今や歴史となり、現在の文化もまたやがて歴史となるだろう。先駆者が開拓した文化は一般に普及し、先駆者の存在は目立たなくなる。しかしその普及した状態こそがまさに豊かさであり、先駆者が成しえたかった未来なのだ。何も問題はない。人と人とがお互いに喧々囂々とやり合っている状態が現在も散見されるが、界隈のミクロとマクロの推移を観察するにつけて、いずれこうした状況は失われると預言する。希薄化という現象が世界にあまねく行き渡るからだ。誰の憎悪も嫉妬も競争も、お互いに手の届かない状態になる。誰もが自由気ままに振舞い、何もかもが自由自在に成されるだろう。これは実際に、先駆者的な活動によって界隈が開拓されてから、普及し一般化する過程をくり返し観察して得られた一定の法則である。ある意味で、お互いの手が届いているうちは、界隈は完全に開拓されたとはいいがたいのかもしれない。フロンティアに伴うチャンスは残されているといえる。しかし結局は、お互いが不干渉主義によって距離を保つ状態へと収束するのではないだろうか。それはさながら人間性の成長とも似ている。界隈の、世界の、幼年期の終わりといえる。重要なのはその先を観据えて今から動けるかどうかだ。形あるもの、成果だけが評価される時代に、結局は行き着くことを理解できるかだ。

・売れなくてもいいという自由が個人出版にはある
誤解されがちなのが、売れなければならない、部数増しなければならないという錯誤である。これは本来、誰に対しても適用される。大手の萌え系の書店様で、西尾維新先生の化物語が、専用の飾り棚を作られていたとはいえ、どちらかといえばスペースの端のほうに置かれていて目立たず、完全に今風の、いわゆるジュブナイルポルノと呼ばれる典型的な「ラノベラノベした」作品が中央でどんと大量に平積みされていて驚いたことがある。西尾維新先生の作風はニッチなのだろうか。売れるかどうかよりも書きたいものを書いている結果としての姿なのだろうか。それは誰にも分からない。その売り場の状況とて僕の主観的な観測と判断に過ぎない。別の書店様では違うのかもしれない。しかし何より、誰もが、好きなように書き、売ることができる。商業作家であれば厳密にいえば売ることを強制されるのかもしれない。それならいっそ商業作家から離反者となって個人作家になればいいじゃないか。ましてや元から個人作家なら、誰憚ることなく自分の好きなように書けばいいことだ。エンタメと文学の論争が、あるいは玉石混交なる忌まわしい言葉を使ったマウント合戦が多々行われてきたが、くり返して述べているように希薄化した世界においてそうしたマウントは一切無効である。はっきりいおう。誰のどんな姿も許されると。好きなように書き、分かる人にだけ理解されるのもまた在るべき創作家の姿だ。個人作家はやはり恵まれているといえる。

・純文学の純って何だ。それ以外は不純だというのか
他人の創作を笑うなということだ。それに尽きる。何だ純って。そう思わないだろうか。それはマウントではないのか。他人の創作を見下すことは他人の命や存在を見下すことだ。そうしたマウント心は必ず観透かされるし、大きな災いを呼び起こすことになる。真摯に取り組んでいれば他人をマウントする必要なんてない。商業だから、同人だから、文学だから、エンタメだから、電書だから、紙だから、いったい何だというんだろうか。創作を何だと思ってるんだ。読者様のことを真摯に思い、命を、存在を、人生を投げ出す覚悟がどこにあるんだ。一心に創作に取り組めばいいだけのことだ。自分が信じる作品をひたすら研ぎ澄まし、作り上げることだ。邪心があるから言動が歪むんだろう。現にどうだ。黎明期に跋扈していたマウント野郎の何人が、今も生き残って書いているんだ。そもそも論として、誰のどんな作品も平等に価値があるのだ。それが創作だと思う。誰のどんな姿も許される。それが寛容さであり慈悲だろう。あれは駄目だこれは駄目だという前にどんなことだってやってみたらいいだろう。界隈のありとあらゆる邪心が払拭され、誰もが一心に創作に向かうとき、界隈の豊かさは最高潮になるだろう。自戒を込めてそう書いている。希薄化した世界では、形あるもの、成果だけが評価される。真面目で一生懸命な創作家が評価される。読者様に対して真摯に向き合っている創作家の作品こそが評価される。ノーモアマウントでやっていこう。

・電書端末がないと電書が閲覧できないわけじゃない
これもまたよく誤解されていることだ。電子書籍はスマホだろうがパソコンだろうが自由自在に閲覧できる。例えば、スマホ版のKindleアプリは無償で、ごく簡単にダウンロードできる。電子書籍閲覧のためのアプリはそれ以外にも数多くあり、もっといえばEPUB3ファイルを閲覧できる環境があれば何でもいい。近い将来には、EPUB3を直接閲覧できる野良アプリのようなものも普及するだろう。パソコンではKindle previewerで閲覧できるし、パソコン用のKindle環境も機能が限定されるとはいえ存在する。つまりそう考えると、いわゆる狭義のKindle端末だけでなく、iPhone、iPad、Nexus7(今後の名称はPixelか)、その他数多あるAndroidタブレットまでが、おしなべて電子書籍を閲覧できる端末であるということができる。EPUB3ファイルの閲覧に制限が多過ぎるのが現状であって、例えばブラウザでいきなり開けるように、プロトコルとして標準化されることが望ましいだろう。閲覧のためのアプリが必要であること自体が障壁だといえる。EPUB3を作るのも、読むのも、完全に自由気ままで、自由自在であるべきだ。そうなるのはそれほど遠い未来ではないと預言する。jpgファイルだって最初はここまで普及していなかったのだ。しかし少なくとも専用端末がなくてもおおよそどんな端末でもアプリさえ入れれば電子書籍が閲覧できるということはもっと知られていいだろう。端末を売りたいだけのプラットフォームの囲い込み戦略などどうでもいいことだ。

・一極集中か無償戦略か多販路展開か、それが問題だ
KU専売と、楽天Koboを使ったプライスマッチ戦略と、BCCKSを使った多販路展開。このどれもが、それを選ぶと他の方法は選ぶことができないバーターとなる。さすがにそこはどの手法もバランスよく取り入れるというわけにはいかないだろう。もっともそれとて、作品ごとに手法を変えることによって、作家としての自分を分散させることは可能だといえるのだから奥が深い。ある作品はKUで、ある作品はプライスマッチで、ある作品は多販路展開でと分散させることで、いわゆるそれこそポートフォリオを形成することができるわけだ。そこまでやっている個人作家がどれだけいるかは寡聞にして知らないがやってみる価値はあるだろう。例えば作品の一巻だけをプライスマッチ戦略で、続刊はKU専売ということもできる。商業出版の作品を部数増するために小説投稿サイトで外伝を書いている人もいる。ある時期までプライスマッチ戦略で売りまくり、一定期間が過ぎたらKU専売にする人もいる。BCCKSからありとあらゆる販路に多販路展開する手法の場合、KUもプライスマッチも使えずにすべてアラカルトになるので不利ではあるが、それぞれの販路に独自に存在する多様な読者様にアプローチできる強みはあるだろう。PODは単価が高いので部数増は難しいが、在庫の管理が必要なく、実装すると電子書籍とのリンク表示となる。いろいろな手法にそれぞれの魅力がある。何を選択するかで特色を作り出せることはゲーム的で面白いといえる。

・最後まで立っていた個人作家がよい個人作家である
何事もそうだが継続することだ。1年よりも3年、5年よりも10年続けることで自ずと成果に結びつくといえるだろう。そもそも論として界隈の多くの人たちは観切るのが早過ぎるところがあり、評価できないとずっと思ってきた。参入して即結果が出るなら苦労はない。僕はもう20年も個人作家をやっているが、目に観える大きな成果に結びついてきたのはほんのここ数年のことだ。やっとこさそうなったのだ。20年続けたからだ。20年も続けてその程度かという人もいるが、そんなものいわせておけばいいのだ。口だけの批判であり痛くもかゆくもない。現に成果を出せている僕が強いのだ。雨にも負けずとはよくいったものだ。そういう人になりたいと思わないだろうか。既得権益に拠って立つ人たちが寄ってたかって僕を批判しコケにしてきたが、まったくもって我々の躍進を止めることができていない。卑劣な手段を山のように使い、徒党を組んで、そのざまだ。一ミリも阻めていないじゃないか。我々電書会の躍進には目覚しいものがあるが、それはまだ始まったばかりなのだ。ゆめゆめ忘れることなかれ。継続することが大事であり、継続するからこそ研ぎ澄まされるのであり、覚悟が試されるのであり、つまるところ、最後まで立っていた個人作家がよい個人作家であるといえるのだ。遠からず1000年後に思いを残すために「犬吠埼貨幣」を鋳造する。普遍的な価値にまで高めた思想を刻む。我々は遥か未来、1000年後にも立っているのである。

・書きたいものを書けることのほうが恵まれているのだ
要はそういうことである。僕が好きな言葉に「おまおれ」というものがある。お前イコール俺ということだ。読者様のために書いているようで自分のためでもある。自分のために書いているようで読者様のためでもある。これこそまさにウインウインであり、最高の関係性だといえるだろう。これが売れるために書いているとなるとどうだろうか。そこには犠牲が伴う。必ずしも自分の好みでないものを書かなければならないとしたら苦痛で仕方がないだろうからだ。ヒロインの好みにしても、個人作家はいいぞ。自分の思うがままのヒロインを描けるのだから。ルックス、性格、髪形、衣装、胸の大きさ、どれを取っても理想のヒロインを。それがどうだ、売れるために書いているとしたら、何も自由にならないのだから災難である。矛盾する話だと思わないだろうか。作家が、自分の思うがままに、自由気ままに作品を書くことが最も幸せであると僕は思うし、そのほうが結果的に読者様と良好な関係性を築くことができるのにも関わらず。その法則に反して、捻じ曲げて、例えば編集者が、出版社がこういったから書くというのは、結局のところ最善の結果には至らないだろう。個人作家がむしろ恵まれているというのはそういうところである。これからの時代、そのギャップはどんどん大きくなっていく。自由に伸び伸びと書けばいいのだ。界隈の主流が、売れるから書くのではなく、書きたいから書くという方向性へと移行していくことは必至だといえる。それでいいのだ。

・売れ筋の作家、ニッチな作家、どちらが魅力的なのか
そんなことは読者様が選べばいいのである。作家はただひたすらに自らの書きたいように書けばいいのだ。なぜなら書きたくないように書くなどということは非合理的であり、いい結果に結びつくはずがないからだ。もちろん売れ筋を研究するのはすばらしいことだ。それを否定するものではない。しかし需要という型に自らを当てはめるようなことはできないといえる。こう考えることはできないだろうか。人は誰もが自らの書きたいように書く。そして、売れ筋の作品が書ける作家と、ニッチな作家が生まれる。というより、ある作家の書いた作品がたまたま売れ筋であり、別の作家の書いた作品がたまたまニッチだったのだ。何が売れ筋で何がニッチなのかは読者様が決めることだ。ヒロインのルックスにしても大局的には数百年単位で何が魅力的であるかの価値観すら変わっていくという話もある。西尾維新先生すらいずれは主流でなくなる可能性だってある。西尾維新が売れているから西尾維新を書くのか。本当にそう思うのか。僕は必ずしもそうは思わない。売れ筋を模倣して売れ筋になれるものだろうか。書きたいように書いた結果、それがたまたま売れ筋だった人が売れ筋になるだけのことだ。僕は書けば書くほどニッチになるが、それを少しも損だとも恥だとも思っていない。むしろニッチはいいぞと思って書いている。読者様と「おまおれ」の関係性を結べることを誇りに思っている。だからこそ筆が進むし、作品に愛着も湧くというものだろう。

・誰のどんな姿も許されることが究極の多様性である
商業作家だろうが個人作家だろうが、文学だろうがエンタメだろうが、電子書籍だろうが紙の出版物だろうが、売れ筋だろうがニッチだろうが、有償だろうが無償だろうが、既得権益だろうが革命家だろうが、大手だろうがピコ手だろうが、古参だろうが新参だろうが、告知をしようがしまいが、専売だろうが多販路展開だろうが、何だろうが、とにかく、誰のどんな姿も許される。そしてそれこそが究極の多様性であり、寛容さであり、慈悲であるといえる。界隈は一ミリもその状態になっていない。近づいているとはいえるが未完成である。しかしそれは仕方のないことだ。物語じゃなくなってしまうだろう。冒頭でいきなりハッピーエンドか。それでは話にならない。まだまだすべてはこれからだろう。波乱万丈の展開がある。しかしそれでも必ず正義は執行されるだろう。実際に観測するところではこの世界は確実に希薄化している。喧々囂々とお互いに殴り合っている時代はやがて過ぎ去るだろう。相互理解が必ずしも必要とされず、お互いに距離を置いて住み分ければいいと理解されるだろう。読者様のことを真摯に思うなら、誰もが作家であり、誰のどんな作品にも平等に価値がある。それが分からないのは哀しいことだ。エブリワンクリエイターという夢を僕はまだ諦めたわけではない。技術が進歩し、ありとあらゆることが自由化されれば、結果的に理想世界は実現しているだろう。いつの間にか、誰もがそこに住んでいる。そのことに気がつく日が来るだろう。

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